田園文庫 一大分県文人画人資料館一

田園文庫 一大分県文人画人資料館一 大分県(豊後・豊前の一部)の先哲資料の収集。その個人的な学習と調査。

1.大分県に関わる文化資料の収集と保存と紹介


2.南画を中心とする掛軸の見方


3.事歴や図版が掲載された書籍の紹介


4.書画を扱う古美術商のモノの見方


5.一般の方へ掛軸の字句・呼称の説明


6.業者を含む書画界入門の手助け


7.豊後文人の決定的鑑定


8.豊後南画の決定的鑑定

0387三浦梅園「梅園全集/梅園会/大正元年(1912)」の上巻冒頭、序文の一部として梅園の息・黄鶴が記した「先府君孿山先生行状」の中に、同様の文が出て来る。「莫賤於乞莫辱於偸莫暴於奪莫惨於殺」と殺伐とした語句が並ぶが、「莫賤於乞」「莫辱於...
19/05/2026

0387
三浦梅園

「梅園全集/梅園会/大正元年(1912)」の上巻冒頭、序文の一部として梅園の息・黄鶴が記した「先府君孿山先生行状」の中に、同様の文が出て来る。

「莫賤於乞莫辱於偸莫暴於奪莫惨於殺」と殺伐とした語句が並ぶが、「莫賤於乞」「莫辱於偸」「莫暴於奪」「莫惨於殺」と分けて読めば、簡単な文であることが分かる。順に、乞うほど賤しいことは莫(な)し。偸(ぬすむ)より恥かしいことは莫し。奪うより悪いことは莫し。殺人ほど惨(みじめ)なことは莫し。

梅園の書幅は、常々この様な「戒め」のような語句が多いと思う。難解な梅園思想の字句にしては、安直すぎる言葉で周りの者を諭している様にみえる。多い書幅の一つに「恥をしれ」等もある。

ところが、前述の「莫賤於乞莫辱於偸莫暴於奪莫惨於殺」も、梅園の主著「玄語」に出てくる。単に戒めの標語ということでは無く、天の構成、人体の成立ち、思想の持ち方、更には、将来を予見する易(えき)に亘り、実証を優先して総合的に考察をし、全てを論理的に結びつけて、字句で表記、或は図に明示したのが梅園思想と思っている。

その部分部分の字句を取り出して書幅にすると、上記の様な結果になる。漢詩人の様な韻を踏むなどと云う事は無いから、とても直接的で安直な字句にみえてしまう。ところが、その字句の前後、或は左右、或は上下に字句の意味の絡みがあって、安易にその語句の意味で終ってしまってはならないのである。

0043三浦虎角「俳諧 文殊水/三浦虎角/延享3年(1746)」は、稀覯本である。僻遠の地・大分県国東の山奥で「俳書」と云えども、江戸中前期に出版にまで至ったと云う事実は、奇跡としか言いようが無い。その時分、出版の冊数は、30~50冊の私家...
18/05/2026

0043
三浦虎角

「俳諧 文殊水/三浦虎角/延享3年(1746)」は、稀覯本である。

僻遠の地・大分県国東の山奥で「俳書」と云えども、江戸中前期に出版にまで至ったと云う事実は、奇跡としか言いようが無い。
その時分、出版の冊数は、30~50冊の私家版程度と聞いている。それから、277年(~2023年)の歳を経て、今に残存する「俳諧 文殊水」は、真に奇跡の一冊と思う。

入手時 調査した記憶があるが、梅園旧居の目録に一冊記載が有ったと思う。他の施設に所蔵は、無かった様に思う。
結構な箇所で蟲も入っているが、題簽もその儘で、糸も辛うじて生きている。

三浦虎角は、三浦梅園の父。梅園は、「先考三浦虎角居士行状」を残している。
それに依れば、「…名は義一、字は快順、…野梅堂主人虎角と號す…」とある。

0145三浦梅園「再答多賀墨卿」の原本である。この重要な梅園の稿本を所持していたのは、豊後日出町(ひじちょう)の出田新博士である。熊本の交換会に於いて、一連の博士の所持品が出品され、博士の存在を知った。博士の専門は、「植物病理学」と云う。札...
16/05/2026

0145
三浦梅園

「再答多賀墨卿」の原本である。この重要な梅園の稿本を所持していたのは、豊後日出町(ひじちょう)の出田新博士である。熊本の交換会に於いて、一連の博士の所持品が出品され、博士の存在を知った。

博士の専門は、「植物病理学」と云う。
札幌農学校の創設当時、あのクラーク博士に勧誘された兄・晴太郎氏が、農学校卒業直後に急死した。そのため、急遽、就学に勧誘されたのが弟・新氏である。その時以来、氏は農学の道を歩むことに成った。

出田新博士は、各地で各職を歴任の後、大分県日出町に帰郷して、大分大学に赴任した。帰郷が切っ掛けで、先祖の歴史を調べているうちに、先祖が「帆足万里」の門下生である事を発見して、「帆足万里」や、その源と成った「三浦梅園」の研究に発展した。この時分は、近郊近隣に、万里の門下生が数人生存していたり、彼らを顕彰する気運も高く、資料の収集や研究に支障は無かったものと思われた。それでも何より私が驚愕したのは、氏の遺した研究・調査過程の博士自身の膨大なメモや原稿の下書きで、私自身の進むべき道を、強力に示唆された思いがした。

東京の谷中墓地を過(よぎ)っていた時、偶然に「出田晴太郎」氏のお墓を発見した。部分が破損していたが、辺りの墓掃除の序(つい)でであったのか、墓は小綺麗な状況であった。しかし、如何なる理由でこの地であるのか。

出田新博士の長男の奥方は、青山学院の出身と云われていた。上品で知的な老婦人であった。婦人には、これらの重要な資料を割愛頂き心より感謝している。

0285松本真砂雄真砂雄の美人画のモデルは、真砂雄夫人の妹氏であった。密室で裸婦像のモデルなどもしていたから、不遜な噂なども有ったような気がして、その事を無骨に夫人に尋ねてみた。夫・真砂雄氏と妹は、随分年齢の開きが有ったことを、婦人は美しい...
15/05/2026

0285
松本真砂雄

真砂雄の美人画のモデルは、真砂雄夫人の妹氏であった。密室で裸婦像のモデルなどもしていたから、不遜な噂なども有ったような気がして、その事を無骨に夫人に尋ねてみた。
夫・真砂雄氏と妹は、随分年齢の開きが有ったことを、婦人は美しい笑顔で答えてくれた。

美人画は、万人に受け入れ安い。しかも場(ば)は、「湯の町別府」のことでもある。
多くの展示会で受賞を重ねて著名に成った夫・真砂雄氏に、不貞その他の不安が無かったか、無礼な質問を重ねてみた。
ところが「それらを勘ぐる質問」自体が、夫人には嬉しい思い出の様で、往年の仲睦まじい夫婦の様子が偲ばれた。

別府は、保養地として有名になってきた。その頃、全国各地から観光客や別荘を建てる人が大挙した。
それとは違う意味であったが、松本真砂雄も同じ時期に別府へ戻ってきた。
松本真砂雄は県内出身であるが、もとは宇佐郡柳ヶ浦(現在・宇佐市)の出身である。
画を志して一旦東京に出たが、21歳(数え年)の時、大分・別府で開催された九州沖縄八県連合博覧会に出品の機会を得た。
それが切っ掛けで大分に帰ってきた。その機会で別府に住むようになったと聞いている。

「湯の町」、「美人画」、若年で「別府定住」等の事柄。もっと別府市は「松本真砂雄」を顕彰すべきと思う。
顕彰に至らなくても「利用できる事柄」は、多々あるのではないだろうか。

0147松田竹園竹園は、耶馬渓に生きた。本帖「耶馬渓百勝図/貮折」も、「耶馬真景画帖・松田竹園画/諏訪音吉/明治25年(1892)」も、掛軸として描く南画も、みな耶馬渓である。この耶馬渓画帖は、佐野経彦(つねひこ)に贈られたものである。佐野...
12/05/2026

0147
松田竹園

竹園は、耶馬渓に生きた。本帖「耶馬渓百勝図/貮折」も、「耶馬真景画帖・松田竹園画/諏訪音吉/明治25年(1892)」も、掛軸として描く南画も、みな耶馬渓である。

この耶馬渓画帖は、佐野経彦(つねひこ)に贈られたものである。佐野経彦とは、「神理教」と云う新興宗教を興した宗教家である。竹園と佐野経彦の関係の詳細は知らない。しかし、当帖・百図は、渾身の作である。二人の関係は、極めて深かったと思われる。

帖の「自序」を見ると、田能村直入の来遊を期に、短期間であるが南画古法を学び、この図の完成に至った旨が紹介されている。
そして酒を呑み過ぎてはいけないと、直入から「不呑居士」の号を貰った事なども記されている。
「自序」に付いては、大方を読んでいない。この部分を読むことで、この帖の由来の「本当」が理解出来ると思われる。

耶馬渓と云えば、小野桜山を想い起こすが、もう一人が松田竹園である。小野桜山は「学者」としての業績を遺した。一方、松田竹園は「画家」であったと理解している。

0602松島善譲豊後街道といっても、車の1.5倍ほどの道路幅であるから、当然車両は一方通行になっている。一方通行をそのまま進むと、車両が往来している大きめな幹線道路に出る。出る手前の左角に照雲寺と云う寺がある。現在に於いても立派な寺風を感じ...
10/05/2026

0602
松島善譲

豊後街道といっても、車の1.5倍ほどの道路幅であるから、当然車両は一方通行になっている。一方通行をそのまま進むと、車両が往来している大きめな幹線道路に出る。出る手前の左角に照雲寺と云う寺がある。現在に於いても立派な寺風を感じるから、その昔はさぞ威厳のある寺院であったろう。

浄土真宗本願寺派照雲寺住職[松島戒文]の子が[松島善譲]である。更に松島善譲の子が[松島禅海]である。勧学更に執行長に累進した松島善海が著名であるから、父・善譲の名にはやや疎い。 

書画商を営んでいると、「寺院」に関りが出来る。店に訪れるその関係者は、必ずと云って間違いが無いほど、「松島善譲はないか?」と尋ねてくる。                                                                            

松島善海は、既に著名であった事や比較的近年の僧侶であるから、遺墨は多々残されている。
ところが、父・松島善譲の遺墨は皆無に近い。その理由は、時代がより古い事と、勧学に進みながら、一般の人々の「勧学」に付いての、その職務の重要性が認知出来ていなかった為と思っている。

善海を知って、慌てて善譲を探してみても、「父・松島善譲」は見当たらないのである。

当肖像部分は、写真である。

【松島善譲】
1806-1886 江戸後期-明治時代の僧。
文化3年7月15日生まれ。豊前蠣瀬(かきぜ)村(大分県中津市)浄土真宗本願寺派照雲寺住職松島戒文の子。京都で性海にまなび,帰郷して自坊に学寮信昌閣をひらく。文久2年勧学。空華学派の大成者で,前田慧雲,大洲鉄然らをそだてた。
明治19年7月6日死去。81歳。

0487松尾馬城「大分県画人名鑑/大塚富吉/昭和53年(1978)」で、松尾馬城の項に「~父は素封家として日田代官所の掛屋をつとめ帯刀を許されていた。~」とあり、さらに「~若年、帆足杏雨に従って南画を修めたが、長兄、次兄相ついで没するに及び...
09/05/2026

0487
松尾馬城

「大分県画人名鑑/大塚富吉/昭和53年(1978)」で、松尾馬城の項に「~父は素封家として日田代官所の掛屋をつとめ帯刀を許されていた。~」とあり、さらに「~若年、帆足杏雨に従って南画を修めたが、長兄、次兄相ついで没するに及び、家を継いで家業についたが、業になれず、家産を乱し、~さらに清国に遊び、各地を遊歴し上海にあること一年有余にも及んだ。~」と事歴の紹介がある。

生地の宇佐市中須賀地区を訪ねてみたら、そこは「柳ヶ浦」の辺りである。掛屋を思わせる家屋は、今はもう無い。昔、そうであったような屋敷跡は残っていて、その上に小さな住宅が数件建っている。

兄弟の不幸が続いたとはいえ、家が「代官所・掛屋」の身でありながら、それに意を注がず、南画に没頭した人生は、壮絶である。

前文中に「~若年、帆足杏雨に従って」とあるが、それは事実としても、「師・杏雨」色があるかと云えば、それ程の影響が有ったとも思えない画風と思う。無理に深慮すれば、青緑図であっても着色が薄い事と、骨格が多数の皴線で構成される事であろうか。ただしその皴線は、杏雨のそれとは異なり、細くて数も多いから、馬城は馬城としての独特な世界を創造した南画世界である。

0247法蘭この「屠竜縛虎」は、「帆門と宜園/帆足章二/平成4年(1992)」に所載している。当幅を入手したのは、2003年であるから年次に矛盾があるが、それには訳がある。詳細は覚えていないが、最初の入手は、熊本県の小国町のお寺であったと記...
05/05/2026

0247
法蘭

この「屠竜縛虎」は、「帆門と宜園/帆足章二/平成4年(1992)」に所載している。
当幅を入手したのは、2003年であるから年次に矛盾があるが、それには訳がある。

詳細は覚えていないが、最初の入手は、熊本県の小国町のお寺であったと記憶している。
小国町は豊後に隣接していて、豊後にとても関わりの深い町である。 (北里柴三郎も、勉学の為小国と豊後森の間を往復した。)
豊後の文人の資料を求めて、一寺院に飛込んでみたところ、呆気なく受け入れて貰った。
自分に対してそうであると云う事は、他の方にもそうであったのであろう。
寺院に残されていたものは、雑然としたマクリのみで、掛軸など形の整った「資料」を見出す事は出来なかった。

雑然としたマクリの内の一点が、当「法蘭」である。
「法蘭」が、資料として希少なものと云う認識は充分にあったが、法蘭以外のモノで、支払いの対価に値するものが入っておらず、更にマクリであるから、表装に費用が嵩(かさ)んでしまう事が煩わしかった。大幅であり、しかも双幅であるから。

その時は写真撮影等をして「記事」を記録し、マクリは一括で他所に売却した。
お金の経営と、モノ(資料)の経営の天秤である。
ただただ、金銭の問題であると云えば、全くその通りであるが、金額が小さい物でも、その一瞬の取捨が、収集品の全体を構成してしまう。
その事を、その場で選択する冷静さが無ければ、緊張感を持って収集の永続は出来なかったと考えている。

また、作品・資料を購入する時は、必ず他のジャンルの掛軸や骨董類も購入するように心掛けた。
そうする事によって「保存したい資料」の原価を軽減する事が出来るし、他のジャンルの知識も得る事が出来た。
門外漢(自分の不得意分野)の取扱う骨董品が、業者間に於いて効率良く商売できるのも事実である。

15~20年の後の2003年、業者を介して「法蘭」が持ち込まれた。あのマクリではないか。
この度は、表装が為されて誂えの箱に納まっている。立派に出世していた。

そして既に、図録所載である。

0338法蘭「銭塘詩集/法蘭/寛政4年(1792)」は、釋法蘭の詠んだ漢詩集である。釋法蘭は、豊後日田の広円寺・道寧の子である。府内光西寺・円嵩や竹田万徳寺・円寧は兄弟である。円寧の子が大含雲華である。だから法蘭は、雲華の叔父である。「咸宜...
03/05/2026

0338
法蘭

「銭塘詩集/法蘭/寛政4年(1792)」は、釋法蘭の詠んだ漢詩集である。

釋法蘭は、豊後日田の広円寺・道寧の子である。府内光西寺・円嵩や竹田万徳寺・円寧は兄弟である。円寧の子が大含雲華である。だから法蘭は、雲華の叔父である。

「咸宜園教育発達史/中島市三郎/昭和48年(1973)」では、「我が知る所の僧、世上に高名なるは筑の曇栄、肥の豪潮・法海、我が郷の法蘭・宝月、豊前の大含等なり。―法蘭、銭塘詩集を著わせり―」と、広瀬淡窓の樹林評を紹介している。

更に淡窓は、「又同時に四極先生予を携えて、竹田村広円寺法蘭上人に見えしむ。法蘭字は曇茂、銭塘と号す。一向宗の僧なり。此人少きより、文字をよくし、肥前大潮禅師の弟子となり、又江戸に遊び服部南郭の門にも入れり。当時文壇に於て、一名家なり。大潮かつて其詩に序して、高君秉・原双桂と此人とを以て、九州の三才子と云えり、~」と、懐旧楼筆記巻三に記している。

幼時、広瀬淡窓の直接の師は、前出の松下四極と釋法蘭であった。

0935法海法海を、「真宗人名辞典/西村七兵衛/法蔵館/1999」で調べてみると、***************************************江戸後期の真宗大谷派の学僧。明和5(1768)~天保5(1834)8.6 [諱]...
03/05/2026

0935
法海

法海を、「真宗人名辞典/西村七兵衛/法蔵館/1999」で調べてみると、
***************************************
江戸後期の真宗大谷派の学僧。明和5(1768)~天保5(1834)8.6 [諱]法海 字月蔵。月下 [号]日南。橘洲 [諱]易行院 [生]豊後日田(大分) [出]豊後長福寺宝月の子~~~。
***************************************
等と、出てくる。
実は、当冊、[真宗人名辞典]の入手にあたり、やや迷った記憶がある。先ず金額である。2000年頃、16.200円であった。
自分が必要とするのは、[真宗関係のみ]、[大分県出身者に限る]等を想うと、いくぶん気の重い買物であった。

ところが、当冊には随分お世話になった。
それ程、当冊に掲載された大分県に係わる関係者が多かったと云う事であろう。

法海に付いても、写真の記事が出てくる。私達専門家で無い者には程よく丁度良い。

法海の生涯の業績は、その様な事であったのであろう。
ところで、法海に付いては、これら基本的な事績と、それ以外の事でとても興味深い履歴が伝えられている。

「~法海此此長福寺ニ来留ルコトアリ。先考予ヲ携ヘテ往イテ見エシム。又予カ家ニモ招ケリ。時ニ予初テ五律ヲ学フ。~法海今年二十四歳ニテアリシカト覚ユ。~」(「淡窓全集上巻/日田郡教育会/大正14年(1925)」の懐舊楼記・巻三)は、広瀬淡窓が遺した記事である。

法海は、広瀬淡窓が10歳時の『師』である。淡窓の、学びの一歩であった。

0335帆足通文帆足通文は、万里の実父である。父であるから、万里とかけ離れた時代では無いが、その履歴をはじめ、事績は知れていない。「賞音録稿/伊東金蔵/享和3 年(1803)」に通文(清伯武/姓清氏帆足名通文と表記)の三文(さんぶん)、「銭...
30/04/2026

0335
帆足通文

帆足通文は、万里の実父である。父であるから、万里とかけ離れた時代では無いが、その履歴をはじめ、事績は知れていない。「賞音録稿/伊東金蔵/享和3 年(1803)」に通文(清伯武/姓清氏帆足名通文と表記)の三文(さんぶん)、「銭塘詩集/法蘭/寛政4年(1792)」に法蘭の一文(いちぶん)が紹介されている程度で、通文の事を解説した文は全く無いと思われる。況(ま)して筆跡と成ると、皆無と思っている。

「小山氏着述/破羅和多」は、小山勝甫の草稿と思われる。この表題部分を繰ったところに、「腸序~安永六丁酉五月/帆足通文誌」の序文がある。書体は、楷書で、本文の草書の書風とは、明確に違うものである。それだけの情報で、これが「帆足通文の筆跡」と「絶対」を云えるものでは無いが、経験を基にした判断では、この部分が帆足通文の筆跡と断定をしても良いのではないかと思っている。

本稿は、「万里先生九十年祭/大分史談会創立五周年記念 帆門展覧会」に、出田新博士の名前で出品されている。博士も同じ解釈で、本草稿を帆足通文の筆跡と断定をしていた様である。

帆足通文の事例としては、唯一確認された筆跡である。

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Usa-shi, Oita

電話番号

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