31/03/2026
▶︎清水 博先生を偲んで(1)
7年前のエイプリルフールに、清水先生からこのようなコメントをいただいていたのを見つけました。
ーー
清水博先生のfacebookコメントーー2019.04.01
学問が専門化する事は、学問の老化です。私は〈いのち〉の普遍学として、学問を進めることで、ささやかながら、自分でできる与贈をさせていただく幸せを感じています。
ーー
2019年のエイプリルフール、あるいは新年度の始まりに寄せられたこの言葉は、清水博先生らしい、鋭くも温かい「警告」と「願い」が込められていると感じます。
「専門化は老化である」という言葉を、先生の「場の論理」や「〈いのち〉の普遍学」の視点から紐解くと、以下のような意味として捉えられるのではないでしょうか。
1. 「全体性」の喪失(硬直化)
生命は、常に周囲の環境と相互作用し、変化し続ける「動的なプロセス」です。しかし、学問が専門化し、細分化された特定の領域に閉じこもることは、外部とのつながりを断ち、代謝を止めることを意味します。
生き物において、細胞が特定の役割に固定されすぎて柔軟性を失い、全体との調和を忘れていくプロセスは、まさに「老化(硬直化)」そのものです。
2. 「未知なる場」への創造性の欠如
追悼文に書いた「誰も知らない新しい土地に居場所をつくる創造性」は、専門性の壁を超えたところに宿ります。
専門化が進むと、既知のルールやデータの中だけで思考するようになり、新しい「いのちのドラマ」を生み出すエネルギー(若々しさ)が失われてしまいます。先生は、知識を「所有」して守りに入ることを「老化」と呼び、境界を超えて知を「循環」させることを「若さ(生命力)」と捉えていたのだと思います。
3. 「与贈」が機能しなくなる
清水先生が大切にされた「与贈(よぞう)」は、見返りを求めず、全体のために自己をひらく行為です。
専門化が進みすぎると、「自分の領域以外には関心がない」「専門外のことは語らない」という分断が生まれます。これでは知の「与贈循環」が止まってしまいます。先生は、学問を「普遍学(〈いのち〉の全体を捉える学問)」として捉え直すことで、知を再び社会や他者へひらき、循環させようとしたのではないでしょうか。
「下北沢は心臓をなくした」という言葉も、街が特定の機能(商業的合理性など)に特化し、「専門化(老化)」してしまったことへの嘆きだったのかもしれません。
対して、大久保という「境界地」で、あえて既存の枠に収まらない「教養の再生」を試みるDARWIN ROOMの活動は、先生の目には「若々しい、〈いのち〉の拍動」として映っていたはずです。
そんなことを新年度に当たり、清水先生を思い出していました。