さんべ縄文の森ミュージアム・三瓶小豆原埋没林

さんべ縄文の森ミュージアム・三瓶小豆原埋没林 地底に縄文時代の巨木そびえる奇跡の森、三瓶小豆原埋没林

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑫】●石見銀山仙ノ山の銀鉱床 日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」のストーリーをつなぐ3つの時代の火山は、三瓶火山と大江高山火山、そしてグリーンタフの時代の火山です。 大江高山火山の名になじみがある人は少な...
13/05/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑫】
●石見銀山仙ノ山の銀鉱床
 日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」のストーリーをつなぐ3つの時代の火山は、三瓶火山と大江高山火山、そしてグリーンタフの時代の火山です。

 大江高山火山の名になじみがある人は少ないかも知れません。でも、この火山は日本の歴史を動かす大仕事をやってのけました。それが石見銀山の銀鉱床の形成です。

 石見銀山は大江高山火山の一峰である仙ノ山が中心です。この山はおよそ150万年前の火山活動で形成され、続いて生じた温泉の活動で銀鉱床が形成されました。地下にあるマグマの近くで高温になった水が銀をはじめさまざまな成分を溶かし、それが地表付近まで上昇する段階で銀を含む鉱物が沈殿して鉱石が生まれたのです。

 金、銀、銅などの鉱山の多くは、高温の温泉水(熱水)の作用によって鉱床ができたもので、仙ノ山もそのひとつです。

 ところが、仙ノ山には特殊な条件がありました。

 仙ノ山の大部分は、爆発的な噴火で堆積した火山礫と火山灰でできています。火山砕屑丘という地形で、この種の地形として仙ノ山は国内最大級。この時点で特殊です。この種の山で温泉活動があって鉱床ができた例は、少なくとも国内ではほかにありません。

 礫と火山灰が降り積もってできた地盤そのものが鉱石に変化したことで、岩石としては軟質で掘りやすく、鉱石が立体的に分布することから効率よく掘ることができ、さらに昔の技術で高品質の銀をとりだすことができる都合が良い鉱物の組み合わせになりました。

この鉱石こそ石見銀山が国内でいち早く銀の量産に成功する原動力です。当時、この石は「福石」と呼ばれました。石見銀山だけの銀鉱石で、ここだけの呼び名です。福を呼ぶ石。おそらく、その思いを込めた名前だったのでしょう。

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑪】●物部神社と三瓶山の昔話 石見一宮の物部神社には、三瓶山にまつわる面白い話が伝わります。 昔、三瓶山が大きく崩れて瓶が3つ飛び出した、という話です。飛び出した瓶は、ひとつは浮布の池に、もうひとつは三瓶大明神...
11/05/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑪】
●物部神社と三瓶山の昔話

 石見一宮の物部神社には、三瓶山にまつわる面白い話が伝わります。

 昔、三瓶山が大きく崩れて瓶が3つ飛び出した、という話です。飛び出した瓶は、ひとつは浮布の池に、もうひとつは三瓶大明神に、残るひとつが物部神社に納まりました。今は三瓶大明神という神社はありませんが、三瓶町池田の高田八幡宮に合祀されているそうです。

 3つの瓶は三瓶山(さんべさん、みかめやま)の山名につながります。この話が名前の由来とされることもありますが、なんとなく、三瓶山という名前が先にあって、そこから生まれた話のような気がします。

 山が崩れるという話は、浮布の池の形成伝承と共通し、三瓶山が大きく崩れる出来事があり、それがモチーフになっているのでしょう。火山は崩れやすい地形であることを考えると、伝承や昔話で崩れたという話がでてくることもうなずけます。

 さて、山から飛び出したという3つの瓶の現物は、実際にあるのでしょうか。

物部神社には大瓶がまつられています。境内にある一瓶社(いっぺいしゃ)という側社に納められているのです。三瓶山から飛び出した瓶というわけではなく、この瓶から物語が生まれたのかも知れません。

この瓶と一瓶社には重要な役割があり、7月の御田植祭と11月の新嘗祭はこの神社からはじまります。御田植祭では三瓶山から田の神「さんばい」を招き、三瓶山と物部神社をつなぐ存在でもあります。新嘗祭ではその年にとれた米を使って酒造りが行われ、その時に大瓶が使われます。まつられているだけでなく、酒を仕込む実用の瓶なのです。

大瓶で作られた酒は、正月の御神酒として参拝者に振る舞われます。甘酒のような甘さがある濁り酒、いわゆるどぶろくです。

一年の豊作を祈り、収穫に感謝する祭りで大瓶と一瓶社が使われ、それは農耕の神が宿ると考えられた三瓶山につながります。このあたりのことが、3つの瓶が飛び出したという物語の背景になったのかも知れませんね。

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑩】●小笠原流田植え囃子 石見東部には戦国時代に川本を拠点にした小笠原氏のもとで発展した田植え囃子が伝わります。「小笠原流田植え囃子」と呼ばれ、三瓶地区では三瓶町池田と三瓶町小屋原で継承されています。 池田地区...
05/05/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑩】
●小笠原流田植え囃子

 石見東部には戦国時代に川本を拠点にした小笠原氏のもとで発展した田植え囃子が伝わります。「小笠原流田植え囃子」と呼ばれ、三瓶地区では三瓶町池田と三瓶町小屋原で継承されています。

 池田地区の田植え囃子は、浮布の池に祭られている邇弊姫神社の例祭で奉納されます。田植え囃子の一団は池の北岸から舟に乗り、岸近くの水中に立つ鳥居をくぐって南岸の神社に向かいます。このルートが邇弊姫神社の「表参道」で、社殿は池を向いて建っているのです。神社についた一団は境内で田植え囃子を奉納して、一年の豊作を祈願します。

 小屋原地区の田植え囃子は石見一宮の物部神社に奉納されます。7月に行われる御田植祭の時、神社を出発して川合町の町を一巡りしてから、境内で奉納するのです。いずれも、三瓶山への祈りにつながっています。

 2023年に閉校になった池田小学校では、全児童が田植え囃子に取り組んでいました。幾度か上演を見た中で特に印象に残っているのは学校間交流事業の場面でした。

出雲市の大社小学校を訪問した池田小の5,6年生には緊張の色がありました。相手方は数百人。それに対してわすか10人ほどですから無理もありません。見事なマーチングバンドで出迎えられると、その演奏に気おされたようにも見えました。

ところが、池田小の児童らが田植え囃子を披露すると、その演舞が会場を圧倒しました。大社小の児童たちのまなざしが明らかに変わり、堂々と演じ終えた時、うねるような拍手がわき上がったのです。児童たちの日頃の取り組みと、受け継がれてきた伝統文化の力が輝きを放った瞬間でした。

(写真は2025年5月と2016年5月に池田地区で行われた花田植えと物部神社の御田植祭の一場面)

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

小説家、千早茜さんの最新刊「燻る骨の香り」が発刊されました。香り3部作の完結編で、この作品に三瓶小豆原埋没林をモチーフにした一節があります。千早さんは2023年に石見銀山を舞台にした小説「しろがねの葉」で直木賞を受賞されました。取材のために...
02/05/2026

小説家、千早茜さんの最新刊「燻る骨の香り」が発刊されました。香り3部作の完結編で、この作品に三瓶小豆原埋没林をモチーフにした一節があります。

千早さんは2023年に石見銀山を舞台にした小説「しろがねの葉」で直木賞を受賞されました。取材のために大田市に滞在している時に埋没林を知って気になっていたということで、受賞後に縄文の森ミュージアムへおこしになりました。

千早さんが縄文時代の巨木に抱いた印象を作品中でどのように表現されているのでしょうか。

「燻る骨の香り」は集英社から4月30日に初版発行です。

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑨】●三瓶山に登る ~眺望と季節の表情~ 三瓶山は鳥取県の大山、広島県の弥山(宮島)に次いで、中国地方では指折りの登山フィールドと言えるでしょう。 この山の魅力は、山頂からの眺望と四季折々に移り変わる山の表情、...
30/04/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑨】
●三瓶山に登る ~眺望と季節の表情~

 三瓶山は鳥取県の大山、広島県の弥山(宮島)に次いで、中国地方では指折りの登山フィールドと言えるでしょう。

 この山の魅力は、山頂からの眺望と四季折々に移り変わる山の表情、そしていくつものルートがあることです。男三瓶山の山頂に直接至るルートだけでも、最短距離で山頂に至る姫逃池登山道、三瓶山自然林を通る名号登山道、草原から林内、開けた岩場と変化に富んだ西の原登山道の3つがあり、峰をつなぐ縦走路を使うといくつものルート設定ができ、ルートごとに山の表情が変わることが大きな魅力です。

 息を切らしながら登山道を上り、山頂に近づくと広大と言えるなだらかな山頂平原が現れます。初めての人はその広さに驚くことでしょう。一等三角点の地点に立つと、北には日本海と島根半島、出雲平野を見下ろし、南は中国山地の山並み、東は晴れていれば大山、西には石見銀山を生み出した大江高山火山の山群。視界をさえぎるものがない一級の眺望です。条件によっては中国山地の彼方まで雲海が広がり、冬の時期には木々の枝につく霧氷を見ることができます。

 さらに、厳冬期の姿も魅力的。たっぷり雪をかぶった峰をふもとから見あげるだけでも雪の山に来たことを実感できます。スノーシューとストックがあれば、積雪時でも大平山までは安全に、それほどの難しさもなく登ることができ、そこからの眺めはすでに本格的な冬山の姿です。

 季節を彩る花と野鳥のさえずりに満ちた三瓶山。春~秋はリフトで手軽に大平山まで登って山の雰囲気を満喫できます。穏やかさと厳しさを兼ね備えた三瓶山。何度登っても新しい発見が待っている山です。

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑧】●三瓶そば ~火山の土地だからこそ~ 日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」の構成文化財のひとつに三瓶そばがあります。三瓶そばは農林水産省の地理的表示保護制度(GI認証)により名称とブランドが保護されてお...
21/04/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑧】

●三瓶そば ~火山の土地だからこそ~

 日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」の構成文化財のひとつに三瓶そばがあります。三瓶そばは農林水産省の地理的表示保護制度(GI認証)により名称とブランドが保護されており、江戸時代以来受け継がれた三瓶在来のそばを三瓶地区で育てたものだけがこの名称を使うことができます。そばの名産地が東日本に集まるなか、明治時代から西日本では数少ない名産地として評価されており、現在も全国の品評会で高い評価を得ています。

 さて、明治、大正、昭和の前半まで、そばには救荒作物、すなわち食糧不足を補う食べ物という一面があり、そばの産地では都会へ出る子に向かって親が「村がそばの産地だと言わないように。貧しい土地の生まれだと思われるから。」と伝えたという逸話もあります。そばは米を作ることができないような荒れた土地でも育つため、このような逸話が生まれたのでしょう。

 三瓶山のふもとも米を作ることができない土地が広がっていました。牧野に使われた土地には水がなく、ふもとから少し下ると豊富なわき水があるものの、水は深い谷の底を流れ、用水の整備と土壌改良が行われるまでは水田に使える場所は限られました。それは、三瓶山が火山灰土壌で水が地下に染み込み、わき水の下流では火山灰の大地を川が削って深い谷を作り、河岸段丘として残された平らな土地には水がなかったためです。

 この火山地形で暮らすためにそばの栽培が盛んに行われ、寒暖差が大きい高地の気候が西日本では珍しい高品質なそばを作り出すことにつながりました。

 そして、三瓶そばの生産が盛んに行われたもうひとつの理由として、安定的な需要がありました。温泉に湯治に訪れる人にそばを提供する店ができ、陸軍の演習場があったことで兵士に訪れる兵士の食料需要もありました。温泉は火山がもたらし、演習場も火山地形を利用したものです。火山に起因するいくつかの要素が関わり、西日本を代表するブランドそばとしての三瓶そばの今があると言えるでしょう。

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑦】●浮布の池と人麻呂、白鳳地震「君がため 浮沼池の菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも」 歌聖と称される柿本人麻呂の万葉歌にある「浮沼池」は、三瓶山の浮布の池ではないかと言われています。人麻呂は石見の地に縁...
20/04/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑦】
●浮布の池と人麻呂、白鳳地震

「君がため 浮沼池の菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも」

 歌聖と称される柿本人麻呂の万葉歌にある「浮沼池」は、三瓶山の浮布の池ではないかと言われています。人麻呂は石見の地に縁があり、益田市の鴨島伝承、江津市の高角山など関係するとされる場所がいくつもあります。そのことから、浮布の池=浮沼池説が生まれたのでしょう。

 浮布の池には、池の形成を伝える伝承があり、それは白鳳地震(684年)の時に三瓶山が大きく崩れて流れ下った土砂が谷をせき止めて池ができたとするものです。白鳳地震は記録に残る最も古い南海トラフ海溝型巨大地震で、西日本を中心に甚大な被害をもたらしたと伝わるものです。

 浮布の池=浮沼池説と白鳳地震伝承の両方を信じるなら、白鳳地震の発生は人麻呂が20代の頃。晩年に浮布の池を訪れたとしても、池の形成から数十年しか経っていない頃になります。ヒシが茂る池は泥の堆積が進んで浅くなった環境で、池としては老齢期の状態。白鳳地震でできた池を人麻呂が訪れたとすれば、そこはヒシが茂るような池ではなく、谷が水没したままの真新しい池だったはずです。

 そう考えると、浮沼池説と白鳳地震伝承の少なくともどちらか一方は正しくないことになります。地域のストーリーとしては、人麻呂がこの地で歌を詠んだとしたいところですが、歴史の事実はどうなのでしょうか。

(今の季節に合いませんが、写真は大部分が結氷した浮布の池)

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

2026年1月に讀賣テレビ「かんさい情報ネットten.」の「若一調査隊」で紹介された映像です。
18/04/2026

2026年1月に讀賣テレビ「かんさい情報ネットten.」の「若一調査隊」で紹介された映像です。

2K likes, 81 comments. "【若一調査隊】島根県 約4000年前の巨木が残る「三瓶小豆原埋没林公園」とは?"

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑥】●浮布の池 風がない静かな日、浮布の池の湖面は男三瓶山と子三瓶山を逆さに映し、それは大田市を代表する風景のひとつに数えられます。 この池には若人に変じた大蛇に恋した娘の伝説があり、この物語は矢に射貫かれて水...
18/04/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑥】

●浮布の池

 風がない静かな日、浮布の池の湖面は男三瓶山と子三瓶山を逆さに映し、それは大田市を代表する風景のひとつに数えられます。

 この池には若人に変じた大蛇に恋した娘の伝説があり、この物語は矢に射貫かれて水中に逃げた大蛇を追った娘の衣だけが湖面に浮いたことが「浮布」の由来とします。地名の由来については、風の具合で、そこだけ波が穏やかな帯が湖面を横切ることがあり、それを水面に浮かぶ布に見立てたともいわれます。

 この池は大田市川合町から長久町、静間町にかけての平野部を流れる静間川の水源にあたり、湖岸に祭られる邇弊姫神社は水神として流域の信仰を集めました。この神社には、江戸時代の前半に川合町に陣屋を構えた吉永藩の領主、加藤明友の書が書かれた扁額が掲げられており、経済振興に取り組んだ加藤家が水源としてこの池を重要視したことが想像できます。

 浮布の池の地形は、両側に尾根が迫り、谷をせき止めたダム湖のように見えるかも知れません。この池は、自然の働きによって谷がせき止められた天然のダム湖なのです。谷をせき止めたのは火山の噴出物です。噴出物が作る地形をたどると西の原につながり、縄文の森を埋めた約4000年前の噴火がこの池を作ったと思われます。

 池の成因に関する伝承があり、それは次回紹介しましょう。

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑤】●三瓶原の道しるべ ~定めの松~ 三瓶山の西の原は、三瓶山を代表する景観であり、表玄関とも言える場所です。大田市側から向かうと、急坂を登り切ってゆるやかな草原の景色が広がったところに、門柱のように2本の老松...
15/04/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史⑤】
●三瓶原の道しるべ ~定めの松~

 三瓶山の西の原は、三瓶山を代表する景観であり、表玄関とも言える場所です。大田市側から向かうと、急坂を登り切ってゆるやかな草原の景色が広がったところに、門柱のように2本の老松が出迎えてくれました。

 それも今は昔。老松はここ15年の間に1本、続いて1本と枯れ、今は片方の枯れた幹が残されているばかりです。

 この老松は「定めの松」の名で、三瓶山の道の目印でした。江戸時代の前半に作られた正保の石見国絵図にもその名前が記されており、石見銀山の初代奉行をつとめた大久保長安が行った石見検地の時に植えられたともいわれます。

 根が宙に浮いた形になって岩をかかえていたことから、塚の上に植えられたことがわかり、かつては道の両側に塚を持つ一里塚の形態を持っていたとみられます。塚が失われた時期はわかりませんが、明治時代に演習場の開場にともなって道の整備が行われたことから、その時に塚を取り除いて道を広げたのかも知れません。

 定めの松は枯れてしまいましたが、道の目印としての歴史的な意味があり、接ぎ木で育てた2代目の松も植えられたことから、日本遺産の構成文化財としてその名は変わらず残されています。

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史④】●三瓶山の牧野景観~吉永藩加藤家~ 三瓶山の草原景観が生まれた理由をたどると火山が作った地形と地質につながります。その環境を活かす方法が牧野としての利用だったのですが、その利用の歴史はどのようなものでしょう...
11/04/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史④】

●三瓶山の牧野景観~吉永藩加藤家~

 三瓶山の草原景観が生まれた理由をたどると火山が作った地形と地質につながります。その環境を活かす方法が牧野としての利用だったのですが、その利用の歴史はどのようなものでしょうか。

 三瓶山での牛の飼育は、江戸時代の前半にあった吉永藩加藤家が鍵になるとされます。加藤家は大田市川合町吉永に陣屋を構え、安濃郡(大田市東部)の多くを領地としました。江戸時代の安濃郡は石見銀山料(領)として幕府直轄地でしたが、その一部を割いて吉永藩が置かれたのです。それまで会津40万石の大大名だった加藤家ですが、お家騒動により石見に1万石で転封されました。いわば「大左遷」です。

 左遷された殿様、加藤家は当主が明成から子の明友に代わり、石高40分の1の苦境を克服すべく、石見の地で懸命に産業振興に取り組んだようです。その取り組みは現代の大田市の産業と地域社会の礎を作ったとも言われ、そのひとつが三瓶山での牛の飼育と伝わります。

 加藤家は但馬国あたりから牛を購入して三瓶山の野に放ち、地元の農民に託したといいます。その後、牛の飼育が盛んになり、数千頭が三瓶山麓で飼育されるようになり、現在も牧野としての利用が続いているのす。

 牧野として使うことで草原の環境が維持され続け、明治時代にはその環境が砲兵、歩兵の演習地に向いているとされて帝国陸軍の演習場が開かれた歴史もあります。

 火山が作り出した三瓶山の地形と地質の特性を、牧野として活かした「左遷殿様」。その施策が現代の景観につながっています。日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」は、火山そのものを語るものではなく、火山を地域史の切り口のひとつとして、大田市全体の歴史と現代をつなぐストーリーなのです。

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

住所

三瓶町多根ロ58/2
Oda-shi, Shimane
694-0003

営業時間

月曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00
土曜日 09:00 - 17:00
日曜日 09:00 - 17:00

電話番号

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