さんべ縄文の森ミュージアム・三瓶小豆原埋没林

さんべ縄文の森ミュージアム・三瓶小豆原埋没林 地底に縄文時代の巨木そびえる奇跡の森、三瓶小豆原埋没林

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉚】●鬼村の鬼岩 ~全国唯一「鬼」地名の里~ 明治時代の地図を見るとその場所に一文字「鬼」と記されています。 大屋町鬼村は旧村名が鬼村で、全国に鬼の文字が使われる地名はいくつもあれども一文字でそのまま村名になっ...
09/08/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉚】
●鬼村の鬼岩 ~全国唯一「鬼」地名の里~

 明治時代の地図を見るとその場所に一文字「鬼」と記されています。
 大屋町鬼村は旧村名が鬼村で、全国に鬼の文字が使われる地名はいくつもあれども一文字でそのまま村名になっていたのはここだけと聞きます。

 鬼地名は近くに鉱山がある場所に多いと言われ、ここにもかつて石こうを出した鬼村鉱山があり、隣の五十猛町には鉛を出したなまり山をはじめ、金銀や銅鉛亜鉛と石こうの五十猛鉱山、そして石見銀山もそれほど遠くはなく、一帯が鉱山地帯であることは確かです。鉱山と鬼地名の関係は、鉱山を隠すために鬼がいることにしたとか特殊な技術を持つ鉱山師集団を鬼と呼んだことに由来すると言われています。

 鬼村にはもうひとつ地名の起源ではないかと考えられている鬼岩があります。傘のように上側が広く、側面に鬼がつかんだ指の跡とされる穴が開いた奇岩です。その異形の巨岩が小さな川が緩やかに流れる谷筋に突然現れると実に印象的な光景です。

 鬼の指跡とされる穴には地蔵が収められ、奥にある穴には馬頭観音がまつられています。大正時代にすぐ近くの鬼村鉱山で石こうが採られるようになり、はじめの頃は馬に積んで鬼岩の前の道を港まで運んだということで、鉱山の繁栄と安全を願って観音像をまつったそうです。

 この岩はおよそ1500万年の海底火山の噴出物が堆積してできた凝灰岩という岩石です。岩の中には火山と海水に由来する塩類が多く含まれています。指跡を残した鬼の正体はこの塩類で、染み込んだ雨水に溶け込み、乾燥して水が再び表面まで移動した時に塩類風化と呼ばれる破壊現象を起こします。わずかずつですが凝灰岩を壊していき、部分的に破壊が進行した部分が穴というわけです。

 以前の鬼岩は鬼村の地元以外ではあまり知られていない存在でした。しかし、長年にわたって住民が環境整備を進めて、今では人が訪れる場所になっています。特に秋には小川に沿って彼岸花が咲き誇ると、ひっきりなしに見物人が訪れる花の名所になっています。

写真1:彼岸花の向こうに鬼岩が見える
写真2:正面からみた鬼岩
写真3:地元住民の思いが込められた鬼の像

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉙】●仁万の硅化木 ~海岸に2つの巨木化石~ 島根県の天然記念物に指定されている大きな樹木化石が仁摩町仁万の海岸にあります。 仁万海岸にはおよそ1500万~1600万年前火山噴出物の地層が露出していて、白い部分...
01/08/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉙】
●仁万の硅化木 ~海岸に2つの巨木化石~

 島根県の天然記念物に指定されている大きな樹木化石が仁摩町仁万の海岸にあります。

 仁万海岸にはおよそ1500万~1600万年前火山噴出物の地層が露出していて、白い部分、緑の部分、火山の断面と言われるなど変化に富んでいます。

 仁万の硅化木は仁万と馬路の間にある田尻の浜から岩場を少し進んだ先にあります。波があると通れないちょっとした難所ですが、それを乗り越えて行くと横たわる巨大な樹木化石が現れます。

 仁万の硅化木は大きなものが2つあり、もうひとつは海食台の岩盤に半ば埋もれています。波が高いと近づくことができない場所ですが、穏やかで潮位が低い時はすぐ近くに行くことができます。こちらは、太さは先のものより細いですが、岩盤中に埋もれた部分はかなり長いのかも知れません。

 田尻の浜に近い方の珪化木をじっくり見ると、割れ目に小さな水晶がきらきらと光っています。この水晶は木が石に変わったことと直接関係があります。木を埋めたのは太古の大噴火で発生した火砕流か土石流でした。埋もれただけでは木が石に変化しませんが、ここではある現象が生じました。マグマの熱で加熱された高温の水が地層に染み込んだのです。この水にはケイ酸(SiO2)という成分が溶けていました。

 ケイ酸は岩石を作る主要な成分です。地球表面の地殻を作る成分のおよそ半分はケイ酸で、この成分でできた鉱物に石英や玉ずい(めのう、碧玉)、オパールがあります。太古の木に染み込んだ水は、木の成分をケイ酸に置き換えていき、やがて石英などの鉱物の塊に変化させました。木の割れ目部分に見える水晶は石英が美しく結晶したものです。

 田尻海岸には小さな珪化木も多く転がっています。波に洗われて角が取れたものが多く、その中には真っ黒の珪化木があります。どうやら火山噴火の熱で炭化したものが石化したようです。炭化した木は珪化木になりにくいようですが、ここではケイ酸を溶かした水の働きがよほど活発だったのでしょう。

 ところで、珪化木と硅化木のふたつの表記が混在していることにお気づきでしょうか。昔は「硅」が使われ、後に「珪」が使われることが多くなりました。今は珪化木と表記することが普通ですが、仁万の硅化木は名称としてこの文字が使われていることから、あえて使い分けています。

写真1:仁万の硅化木の割れ目に見える水晶の結晶
写真2:田尻海岸に近い側の珪化木。木の根元部分で広い部分は幅2m以上ある
写真3:田尻海岸から歩いて珪化木を目指す児童

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉘】●龍厳山と石見城 ~火山の芯がむき出しに~「ここに来る途中、すごい岩があったけど、あれはなに?」 ブラタモリの撮影で大田市を訪れたタモリさん。石見銀山から温泉津へ移動する途中で道路脇の岩に目にとまったようで...
23/07/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉘】
●龍厳山と石見城 ~火山の芯がむき出しに~

「ここに来る途中、すごい岩があったけど、あれはなに?」

 ブラタモリの撮影で大田市を訪れたタモリさん。石見銀山から温泉津へ移動する途中で道路脇の岩に目にとまったようです。温泉津でロケバスから降りると第一声、いつもの番組中と同じ調子で質問されました。

 タモリさんが気になった岩は龍岩(龍厳山)。確かにこの岩、銀山側から見ると何枚もの巨岩がせり経っているように見え、仁万側からは空に向かって伸び上がっているような印象を受ける巨岩です。

全国の際だった地形地質を目にしているタモリさんも気になったこの岩は、火山の芯と言えるもの。日本海が広がっていたおよそ1500万年前に粘りけが強い溶岩が大地を割って上昇したものです。岩には縦方向の筋目があり地層のようにも見えますが、これは溶岩が引っ張られた時にできた筋に沿って岩が割れたもの。かための水飴を箸にからめて引っ張ると伸びた部分に筋目が見えることがありますが、溶岩も同じ現象が起こります。この溶岩は周辺の地層よりも硬く、浸食が進んだことでむき出しになって今の形ができています。

 岩にはえぐられたような穴がいくつかあり、その内側が赤っぽいことも迫力を増しています。見る角度によっては龍が口を開けて天に昇ろうとしているようでもあり、龍岩の名はそこから付けられたのかも知れません。

 龍岩は龍厳山の西側面にあり、東側面には山頂まで登る山道があります。山頂はかつて石見銀山守衛の城のひとつだった石見城跡。山頂に立つと仁万から大国の平野を見下ろすことができ、海もすぐ近くです。石見銀山はひと山隔てた先で見えませんが、周辺の山々が見えて、山城の間でのろしで連絡を取ることもできたと思われます。

 この場所は石見銀山の時代よりもさらに古くから要所でした。

 仁万平野は縄文時代には潟湖(内湾)が広がり、少なくとも古墳時代頃までは水域があったと考えられます。大国地区には、昔は龍岩の下に舟を留める場所があったという言い伝えもあり、潟湖に注いでいた潮川にまで舟をあげた様子が想像できます。

山陰地域では、潟湖の周辺に縄文時代以降の遺跡が多くあり、潟湖は港として使われ、人が集まる場所でした。仁万平野も例外ではなく、大田市を代表する縄文遺跡の古屋敷遺跡をはじめ多くの遺跡があり、古墳と横穴が最も集まる場所でもあります。奈良時代頃には石見国の重要な役所のひとつがあった可能性も考えられています。その歴史を考えると、潟湖とその周辺を一望できる龍厳山が要所だったことにうなずけるでしょう。

写真1 北西側から見た龍厳山
写真2 岩肌にからみつくノウゼンカズラの紅葉
写真3 山頂の石見城跡からの眺め

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日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀の山”と出逢える旅へ~」は、縄文の森(三瓶小豆原埋没林)と石見銀山を核に、大田市の歴史文化をつなぐストーリーです。

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉗】●グリーンタフの大地 ~福光石を生んだ火山と地殻変動~福光石の名は石材としての名称です。岩石としては火山礫凝灰岩に区分され、緑がかった色味から緑色凝灰岩(グリーンタフ)とも呼ばれます。この石ができたのはおよ...
11/07/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉗】
●グリーンタフの大地 ~福光石を生んだ火山と地殻変動~

福光石の名は石材としての名称です。岩石としては火山礫凝灰岩に区分され、緑がかった色味から緑色凝灰岩(グリーンタフ)とも呼ばれます。

この石ができたのはおよそ1600~1500万年前の火山活動によります。この時代には日本海が広がって日本列島の原型ができる地殻変動がありました。火山噴火とともに大地が裂けて谷が生まれ、そこに海が入り込み、海底が広がって日本海が形成されました。広がりつつあった海底と海岸付近では噴火がくり返され、その噴出物の一部が福光石です。地層の厚さは噴火が巨大だったことを物語ります。

この一連の火山活動でできた地層は日本列島に広く分布しています。北は北海道、南は静岡県、そして西は大田市と江津市の市境付近までの範囲です。この地層は福光石と同じように緑色を帯びた凝灰岩を伴うことが多く、地層の分布域を総称して「グリーンタフ地域」と呼ぶことがあります。ほかの地域でも福光石とよく似た石が石材として使われました。京都の社寺でも使われている福井県の笏谷石、江戸で使われた栃木県の大谷石がよく知られています。福光石はグリーンタフを使った石材産地として日本の最西端にあたり、同時に西日本では最も典型的なグリーンタフとも言えるでしょう。

 グリーンタフの地層を作った火山活動とともに日本列島の基盤となる大地は大きく移動しました。西日本は時計回り、東日本は反時計回りに回転運動しながらおよそ1500万年前の短時間で劇的に移動して現在の位置になったと考えられています。

 この動きを解き明かした研究グループのひとりは大田市出身の松田高明さんで、石見地方の火山岩類の年代と古地磁気の研究を皮切りに多くのデータを積み上げて大地の動きを解明しました。

 8月31日(月)に行われる大田高校の文化祭では、松田さんの没後25年を機に同級生らの企画により業績を紹介する対談が予定されています。大田市民会館で9:40頃からの開催で、一般の入場も可能(無料・予約不要)です。

写真1:福光石の断面
写真2:温泉津町福光地内の採石場跡。現在稼働している石切場とは特徴が少し異なる緑色凝灰岩が採られた場所。
写真3:温泉津小学校の背後の岩。この岩も緑色凝灰岩。

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【石見の火山が伝える悠久の歴史㉖】●日本海が生まれた時代 ~石見銀山とともに栄えた福光石~ 石見地方の古い墓にはしばしば福光石が使われています。これは温泉津町福光産の石材で、岩石としては火山礫凝灰岩に区分されるものです。古い墓では表面が黒ず...
08/07/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉖】
●日本海が生まれた時代 ~石見銀山とともに栄えた福光石~

 石見地方の古い墓にはしばしば福光石が使われています。これは温泉津町福光産の石材で、岩石としては火山礫凝灰岩に区分されるものです。古い墓では表面が黒ずんでコケや地衣類に覆われていることも多いため色味がわかりませんが、割れたところがあればもとの色がわかるでしょう。淡い緑色をしていて、1cmくらいの石の粒(礫)が見えることが特徴です。

 福光石の生産が本格的に行われるようになったのは16世紀と伝わります。ちょうど、石見銀山が発見され、銀の生産が盛んになった頃です。石見銀山の隆盛とともに福光石の生産が盛んになったことは、銀山に残る墓石からもうかがわれます。

 かつて多くの人が暮らす都市だった石見銀山には、おびただしい数の墓石が残ります。古い墓石の多くが福光石で作られています。銀山の羅漢寺にある五百羅漢像も福光石で作られています。石見銀山の墓石を調査した結果によると、江戸時代の初め頃までは白い凝灰岩を使った石が多く、その後は緑色の福光石が主流になります。生産がとりわけ盛んになったのは江戸時代になってからなのでしょう。石見銀山での需要によって福光石の生産が盛んになり、温泉津の港に出入りする船でほかの地域にも運ばれて使われたようです。

 福光石は比較的軟らかく加工が容易であることから、石切りに機械や火薬を使わなかった時代には重宝されました。かまどや水場の流し台、石臼などさまざまな用途に使われています。地下に水を流すための暗渠を福光石で作ったものもあります。生活のさまざまな場面で役立った石なのです。生産が盛んになることで石工の技術も向上し、ますます需要が伸びる。かつて福光石は石見の生活を支える重要な資源のひとつだったとも言えるでしょう。

写真1:1970年代まで手掘りで採石していた跡
写真2:現在の採石場の坑内
写真3:福光石製の墓石

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【石見の火山が伝える悠久の歴史㉕】●琴ヶ浜 ~日本一の鳴砂海岸と火山~ 粒の大きさがそろい、石英の割合が高く、汚れが少ない砂。この条件が揃った砂は、踏みしめたりこすり合わせたりすると不思議な音を奏でます。 鳴砂の海岸は全国に200箇所程度が...
02/07/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉕】
●琴ヶ浜 ~日本一の鳴砂海岸と火山~

 粒の大きさがそろい、石英の割合が高く、汚れが少ない砂。この条件が揃った砂は、踏みしめたりこすり合わせたりすると不思議な音を奏でます。

 鳴砂の海岸は全国に200箇所程度が確認されています。おそらく最もよく知られているのは京都府の琴引海岸でしょう。仁摩町の琴ヶ浜は砂が鳴る範囲の広さと音の良さでは、日本一と呼んで差し支えないと思われます。

 琴ヶ浜は東を松ヶ鼻、西を鞆の岬に挟まれ、半円状に長さ1.4kmに渡って砂浜が続きます。その地形が大江高山火山の火口のひとつとする説もあります。火口という決定的な証拠はありませんが、この浜の砂が鳴ることに火山は重要な役割を果たしています。

 大江高山火山は40個以上の峰が集まります。中国地方で最大の大河である江の川さえ、この峰々を避けるように迂回して流れており、中国山地から流れ出る川は大江高山火山の山群を貫いて海に流れでることができません。そのため、仁摩町から温泉津町の海岸は陸地からの土砂の供給が少なく、入り組んだリアス海岸が成立しています。その海岸で、唯一琴ヶ浜だけが広い砂浜になっていて、背後には馬路の高山が迫ります。この山が琴ヶ浜に流れ込む川の流域範囲を決定的に狭めており、新しい砂の供給が少なく、浜の砂は長く波に洗われ続けて音を奏でる条件を満たしています。

 川がないなら、琴ヶ浜の砂はどこから来たのかが問題です。琴ヶ浜の背後の丘陵地は古い時代の砂丘に覆われていて、それが供給源のひとつと推定できます。今の地形が生まれる前、おそらく10万年前から200万年前という長い年月の間に形成された浜と砂丘の砂が供給源なのです。

 そして、浜の砂は強い波浪で沖に運ばれてもふたつの岬に囲まれた湾から外にでることはできず、波によって再び浜に打ち上げられることをくり返しているのです。

 浜に立ち、松ヶ鼻を眺めるとその岩が緑色をしていることに気づくことでしょう。琴ヶ浜の砂を囲い込んでいる岬はグリーンタフの岩石でできており、琴ヶ浜の鳴り砂は2つの時代の火山によって成立していると言えるかも知れません。

写真1 日暮れ間近の琴ヶ浜
写真2 琴ヶ浜の遠景と高山(左の鉄塔がある山)、城上山
写真3 琴ヶ浜に置かれた「白いドア」

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【石見の火山が伝える悠久の歴史㉔】●近代の大森鉱山 ~最大の鉱石~ 明治時代初頭の石見銀山は生産量が低迷して細々と採掘を続けるばかりだったといいます。この鉱山の権利を得て再開発に乗り出したのは長州出身の藤田伝三郎が立ち上げた藤田組でした。 ...
28/06/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉔】
●近代の大森鉱山 ~最大の鉱石~

 明治時代初頭の石見銀山は生産量が低迷して細々と採掘を続けるばかりだったといいます。この鉱山の権利を得て再開発に乗り出したのは長州出身の藤田伝三郎が立ち上げた藤田組でした。

 低迷して閉休山した鉱山も、新しい技術の導入によって再生することがあります。明治時代に機械と火薬をはじめ、西洋の鉱山技術が導入されたことで国内の金属生産は息を吹き返しました。藤田組が石見銀山に着手したのも可能性を感じたからだったのでしょう。

 銀鉱山としての再開発は成功しませんでしたが銅鉱山として操業され、地下深くから掘り出した鉱石から銅と少量の銀を生産しました。当時、藤田組が採りだした鉱石の一部が残っています。

 最大のものは重さ200kg以上に達する巨大なもので、銅の鉱物が主体ですが、銀を含んでいる可能性があります。これは、藤田組が鉱山の安全と繁栄を祈念して大森町の佐毘売山神社に奉納したものです。地下深部からこれを取り出すのはさぞや大変な作業だったことでしょう。普段はある程度小さくして運ぶため、これほど大きな塊で取り出すことはありません。石見銀山の長い歴史の中でもこれほど大きな塊で鉱石を取り出したのはこの時だけではないでしょうか。

 これに次ぐ大きさの鉱石は大田市が所有するもので、三瓶自然館に展示されています。重さ約60kgです。明治時代に皇太子殿下の山陰行幸があり、その時に邇摩郡役所(現在の石見銀山資料館)で展示されたものです。この鉱石は分析が行われており、大部分は銅鉱物の黄銅鉱ですが、黒い部分には1トンあたり500グラム相当の銀が含まれており、銀鉱石としても悪くない品質であることがわかっています。

 16世紀に開発が始まってから約400年間稼働した石見銀山(大森鉱山)ですが、稼働当時に採取され、その経緯がわかっている鉱石はごくわずかです。これらの鉱石は大きさだけでなく、経緯がわかる点で一級の資料と言えるでしょう。

写真1 石見銀山最大の鉱石を佐毘売山神社から運び出す場面。30年以上床下に隠されていた。
写真2 最大の鉱石を一時的に展示している様子
写真3 大正天皇(皇太子時代)の山陰行幸でご覧いただいた鉱石

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【石見の火山が伝える悠久の歴史㉓】●清水の山津波 ~堂床山の山体崩壊~ 中腹に清水大師がある堂床山は大江高山火山の一峰です。この山は16世紀に山体崩壊をおこしてふもとの村を埋めた歴史があります。 火山体はもろく崩れやすいため、大規模な崩壊を...
26/06/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉓】
●清水の山津波 ~堂床山の山体崩壊~

 中腹に清水大師がある堂床山は大江高山火山の一峰です。この山は16世紀に山体崩壊をおこしてふもとの村を埋めた歴史があります。

 火山体はもろく崩れやすいため、大規模な崩壊をおこすことがあります。堂床山が崩壊したのは1542年でした。旧暦8月4日と伝わり、台風の大雨によって地盤が緩み、崩壊をおこしたと思われます。

 当時、石見銀山が最盛期を迎えていました。堂床山のふもとにあたる清水は銀山と温泉津の間にあたる村。温泉津の港からは多くの物資が銀山に運ばれ、行き交う人々によって村は賑わっていたと想像されます。しかし、堂床山の山頂近くから数百メートルの幅に渡って崩れ落ちた土砂は村をうめ尽くしてしまいました。

 清水を訪れると、家や畑の脇に巨岩が点在する光景に驚かされます。道が岩をよけて曲がり、岩を削っている部分もあります。林内に入ると、巨岩が重なる岩海の光景があります。清水の一角に「ようこつ池」という池があり、これは崩落してきた土砂がたまった時にできた浅い凹地が池になったものとみられます。池の底には巨大なスギの倒木があるらしく、崩壊でなぎ倒されたものかも知れません。

 池のあたりから堂床山を見あげると、切り立った岩肌がむき出しになっています。巨岩とともに、480年以上昔の崩壊を物語る傷跡です。

 山体崩壊によって壊滅的な被害を受けた清水ですが、銀山から鉱夫が駆けつけて復旧にあたったということで、その後も銀山と温泉津をつなぐ要所となります。清水から峠を越えて温泉津に至る道を歩くと、石を組んで脇には排水路までもうけた道が残り、ここが重要な道だったことが感じられます。

写真1 清水の集落に点在する岩と堂床山
写真2 林内に折り重なる巨岩
写真3 清水から温泉津に至る道と石切場跡

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【石見の火山が伝える悠久の歴史㉒】●要害山 ~銀山守衛の本丸~ 石見銀山大森町の町並みが銀山川の谷に沿って続き、谷の南に鉱山本体の仙ノ山(標高538m)、北側に要害山(標高414m)があります。要害の名のとおり、石見銀山守衛の城が置かれた山...
24/06/2026

【石見の火山が伝える悠久の歴史㉒】
●要害山 ~銀山守衛の本丸~

 石見銀山大森町の町並みが銀山川の谷に沿って続き、谷の南に鉱山本体の仙ノ山(標高538m)、北側に要害山(標高414m)があります。要害の名のとおり、石見銀山守衛の城が置かれた山です。そこにあった城の名は山吹城。大田市に数多くの山城跡ある中で、規模が最も大きかった城と思われます。

 山吹城は石見銀山を最初に支配した大内氏が築城したと伝わります。その後は石見銀山争奪戦の舞台となり、戦によって支配者が変わる度に城主も入れ替わりました。江戸時代の初めまで使われ、大森代官所が作られると城は役割を終えました。

 要害山は大江高山火山の峰のひとつで、こんもりとした高まりです。町並みを銀山川に沿って上流側へ進み、清水谷製錬所への分岐を過ぎると間もなく右に入る山道があります。道の入口の表示は、山吹城と石見銀山街道鞆ヶ浦道を示しています。

 この山道を登っていくと、「牛の首」という峠で城への道と鞆ヶ浦道が分かれます。まっすぐに進むと馬路の鞆ヶ浦に至る道、左に曲がると要害山です。その先は高低差が200m近くに達する長い階段になっており、一気に登るのはなかなか大変です。かつて山吹城とふもとを行き来した人も、息を切らしながら急な坂を登ったのでしょう。

 城があった山頂は広く、定期的な草刈りによって整備されています。南に仙ノ山を見据え、東の麓に大森の町並み、北は日本海が広がります。さすがは石見銀山守衛の中心となった城。この上ない立地です。仙ノ山山頂近くで銀を生産した石銀集落があった頃は、この城から町明かりが見えていたのでしょう。

 ところで、山吹城の名前の由来は何なのでしょうか。植物のヤマブキは茎の芯を灯明の芯に使い、坑道に多くの灯明が必要だった銀山にはヤマブキが多く生えていたことが由来ではないかという仮説を聞いたことがあります。なるほどと思える説です。もうひとつ、古い時代の製錬は山の斜面に吹き付ける風を使って火勢を強めて温度を上げて行い、そうやって山で行う製錬を「山吹」と呼んだようです。製錬の山吹にちなんで山吹城と呼んだという仮説も成り立ちそうな気がします。

写真1 大森町の渡辺家付近から見た要害山
写真2 要害山から見た大森の町並み
写真3 要害山の夜空

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埋没林公園、ミネラルフェア開催中です。普段はない珍しい商品を置いていますので、ぜひチェックしてみてください!そして、土器や土偶グッズを揃えた縄文コーナーも拡大中です。かわいらしいグッズが続々増えていますのでお楽しみに😊
21/06/2026

埋没林公園、ミネラルフェア開催中です。
普段はない珍しい商品を置いていますので、ぜひチェックしてみてください!

そして、土器や土偶グッズを揃えた縄文コーナーも拡大中です。
かわいらしいグッズが続々増えていますのでお楽しみに😊

住所

三瓶町多根ロ58/2
Oda-shi, Shimane
694-0003

営業時間

月曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00
土曜日 09:00 - 17:00
日曜日 09:00 - 17:00

電話番号

0854-86-9500

アラート

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