藩老森家正雅堂文庫

藩老森家正雅堂文庫 近世史料デジタルアーカイブス 正雅堂文庫の由来は久留里藩家老を務めた森光福(みつとみ)の堂号に由来するもので、当時は「せいがどう」と発音しましたが、いつしか「しょうがどう」で通るようになりました。
久留里藩の家老を務めた森家歴代の史料を収蔵・紹介します。

【20年の謎が解ける】フランス国立軍事博物館で3回目となる視察と調査を実施しました。2004年にベルサイユ宮殿の天井画の甲冑が森家ではないかと連絡を受けて以来、当文庫では慎重に裏付け調査を重ねて参りました。今回の調査では、森家伝来の甲冑であ...
16/01/2025

【20年の謎が解ける】

フランス国立軍事博物館で3回目となる視察と調査を実施しました。

2004年にベルサイユ宮殿の天井画の甲冑が森家ではないかと連絡を受けて以来、当文庫では慎重に裏付け調査を重ねて参りました。

今回の調査では、森家伝来の甲冑であることの確証となる資料も発見されて、それは当文庫の収蔵の資料とも一致する部材が使われていたことがわかりました。

今後、更なる確認を経て正式に森家と宣言できる事になりそうです。

それは見事なまでに見紛う事のない
森忠政公、もしくは忠政公がオーダーをされた
まさにその作品でした。

300年、この国に居られたことの奇跡を感じる調査となりました。

まだまだ謎が多い事ですが、20年最大の謎を今日、解明しました。

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#ヴェルサイユ宮殿の天井 #アンヴァリッド #アンヴァリッド廃兵院 #軍事博物館 #パリ軍事博物館 #森忠政 #森忠政は森蘭丸の弟

昨朝の千葉県で起こった震度5強の地震。久留里城の鯱が両側とも破損する被害。森家2代森光仲が築城奉行となり、造営に携わったお城ですが、明治に取り壊されており、現在のお城は昭和53年に建造された、浜松城を参考に作った模擬天守です。。。。。なので...
12/05/2023

昨朝の千葉県で起こった震度5強の地震。久留里城の鯱が両側とも破損する被害。
森家2代森光仲が築城奉行となり、造営に携わったお城ですが、明治に取り壊されており、現在のお城は昭和53年に建造された、浜松城を参考に作った模擬天守です。
。。。。なので、浜松城と全く同じ形です。
建っている場所も(天守台遺跡を護る意味で)20mほど横にずれています。模擬天守ですが、鯱は江戸時代のオリジナルが保管されていたので、忠実に復元されています(昭和製ですが)
今回もきれいに直せるのだろうか。

 千葉県で最大震度5強を観測した11日早朝の地震で、同県君津市にある久留里(くるり)城のしゃちほこの尾の部分が折れる被害があった。

【森忠政知行安堵状の収蔵について】このたび当家の正雅堂文庫へ、森忠政公の知行安堵状(知行状)収蔵が決まりました。森蘭丸の弟で近世森家の中興の祖となった美作津山藩祖森忠政公のもので、寛永9年(1632)の発行。最晩年のものとなります。内容は津...
06/03/2020

【森忠政知行安堵状の収蔵について】

このたび当家の正雅堂文庫へ、森忠政公の知行安堵状(知行状)収蔵が決まりました。森蘭丸の弟で近世森家の中興の祖となった美作津山藩祖森忠政公のもので、寛永9年(1632)の発行。最晩年のものとなります。

内容は津山藩士篠岡権之助が森家より100石を賜り、勝南郡池原村(現在の津山市大字池ケ原付近)を領有することを認めた文書です。篠岡家が津山藩でどのような役割を果たしていたのかは現在確認中ですが、藩主の判物をもらえる立場であることから、中堅クラスの藩士であったと考えられます。

忠政公関係の消息・花押付文書は希少で現存数も10点程度が確認されるのみで、当文庫では今回3点目の収蔵となります。

収蔵に際してご尽力をいただきました関係各位に心より御礼申し上げます。

#森忠政 #戦国武将  #花押  #知行状  #津山藩  #正雅堂文庫

【旧フランス王室・ジャン四世殿下のご来臨】9月28日、パリのOECD日本大使公邸において裏千家の大林剛郎老分(大林組会長)が会長を務めるポンピドゥ友の会主催の日仏友好茶会が催され、当文庫長の森勇己が代表を務める日仏茶道交流会が後方支援をさせ...
01/10/2019

【旧フランス王室・ジャン四世殿下のご来臨】

9月28日、パリのOECD日本大使公邸において裏千家の大林剛郎老分(大林組会長)が会長を務めるポンピドゥ友の会主催の日仏友好茶会が催され、当文庫長の森勇己が代表を務める日仏茶道交流会が後方支援をさせていただきました。

藩老森家からのご来賓として、旧フランス王室・オルレアン家のジャン4世殿下の親臨を賜り、大江大使ご夫妻、大林会長のお出迎えを受けられ、お席入りされました。席主を大林会長、亭主を森、半東を 筑前黒田藩御用窯・高取焼亀井味楽家の後嗣、久彰さんが勤めました。

殿下はフランス最後の国王・ルイフィリップ1世の来孫(曽孫の孫)にあたられ、王冠の相続人です。

森家は競走馬育成の家業もあり、古くからフランス競馬界との関係を築いており、日本人では唯一、フランス国内において子爵位を賜っております。(フランスにおける爵位は私称とされ、社会的効力は伴いません)

しかしながら今回、今年1月に先代アンリ7世殿下のご薨去に伴い、代替わりをされたジャン4世殿下のご来臨は当家にとっても大変名誉なこととなりました。

東京タワー内に新設された資料館施設、タワーギャラリーが昨日開館し、記念企画展「東京タワーが見つめた60年〜皇族方をお迎えして〜」が公開されています。26日の内覧会には裏千家前家元の鵬雲斎千玄室大宗匠がお見えになられ、当文庫の文庫長で東京タワ...
27/09/2019

東京タワー内に新設された資料館施設、タワーギャラリーが昨日開館し、記念企画展「東京タワーが見つめた60年〜皇族方をお迎えして〜」が公開されています。

26日の内覧会には裏千家前家元の鵬雲斎千玄室大宗匠がお見えになられ、当文庫の文庫長で東京タワー史料室長の森宗勇が当文庫収蔵品などのご説明を行いました。
午後には水戸德川家の德川斉正様、久留里藩主黒田家15代当主黒田祐司様などのご来臨もありました

このたび東京タワーに史料展示施設「タワーギャラリー」がオープンします。開館記念特別展では当文庫の収蔵品より、ボンボニエール2点および関係史料5点が出陳されます。予定される記念図録に東京タワー史料室長を勤める当文庫の森による解説と、定期的なギ...
22/09/2019

このたび東京タワーに史料展示施設「タワーギャラリー」がオープンします。
開館記念特別展では当文庫の収蔵品より、ボンボニエール2点および関係史料5点が出陳されます。予定される記念図録に東京タワー史料室長を勤める当文庫の森による解説と、定期的なギャラリートークが予定されています。

タワーギャラリー
東京都港区芝公園4-2-8
東京タワーフットタウン3F
2019年9月26日開館
年中無休
9:00-23:00(最終入館22:30)

開館記念特別展
東京タワーがみつめた60年
〜皇族方をお迎えして〜
会期:令和元年9月26日から令和2年2月29日

旧久留里藩黒田家14代当主・黒田英志様におかれては、去る9日にご逝去されました。写真は2015年に森家へ贈られた御手作の茶杓です。ご生前には当文庫のイベント、茶会にご臨席を賜るなど、様々なご尽力を賜わりました。ここに謹んで哀悼の意を表します...
10/09/2019

旧久留里藩黒田家14代当主・黒田英志様におかれては、去る9日にご逝去されました。

写真は2015年に森家へ贈られた御手作の茶杓です。

ご生前には当文庫のイベント、茶会にご臨席を賜るなど、様々なご尽力を賜わりました。
ここに謹んで哀悼の意を表します。

上野の広徳寺跡と森家「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」と、江戸時代の人が駄洒落にしていたほどの名所で、この廣徳寺は上野の駅前にあった大きなお寺だった。関東大震災と東京大空襲で壊滅的被害を受け、昭和45年まで頑張ってこの地にあった...
16/02/2019

上野の広徳寺跡と森家

「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」

と、江戸時代の人が駄洒落にしていたほどの名所で、この廣徳寺は上野の駅前にあった大きなお寺だった。関東大震災と東京大空襲で壊滅的被害を受け、昭和45年まで頑張ってこの地にあったが、台東区役所が建てられる事になって練馬に移った。今は形だけ分院として残っている。

広徳寺は加賀の前田家や柳生家、小堀家、保科家、蜂須賀家といった大大名とともに津山藩主森家もここを菩提寺にしていて、特に森家は寺域に専用の位牌堂を建てていた。森忠政の嫡男忠広もここに葬られていて、3代藩主森長武も当初ここに葬られるはずだったが、本人の強い意向で将軍家と同じ寛永寺の護国院に葬られた。(気の毒な事に長武の墓所はその後、綱吉の墓所が立てられる事になって移転させられ、明治以後も青山墓地に移され、今は赤穂に改葬されるという流転を遂げる事になる)

ちなみに本家である津山森家は元禄10年(1697)で断絶してしまうが、藩の日記によるとその後も三日月森家は茶湯料を納めて維持していたようだ。
その分家の久留里森家では1人だけここに葬られた男児がいたが、この墓碑は関東大震災後に久留里へ移されている。久留里のお寺は日蓮宗や真言宗で、禅宗では無かったが、ここ墓碑だけは禅定門の戒名で、且つ黒く焼けた跡があるので、震災の火事だろうか。

この他、久留里藩の江戸家老を勤めた森光厚 の等身大の位牌が納められていたという。
寄進者は老中松平信明。光厚は幼い頃の信明に馬術を教えていたので師弟関係があったようだ。信明の引き立てで江戸城に度々召されて、将軍家斉の御前で馬術を披露をしたと記録されている。葵紋の馬具と紅裏時服、銀1枚などの拝領品があった。確証はないが、老中から贈られた立派な位牌という事で、おそらくは屋敷の仏間というわけには行かず、森家の位牌堂に安置されたと思われる。

ちなみに久留里の森家は屋敷を下谷広小路に構えていて、このすぐ近くにあった。今その場所はアメ横から一本外れた通りの料理屋さんになっているが、当時は多くの著名人出入りしていた。
会津藩家老の西郷頼母とは姻戚関係もあって往来が多かったようで、頼母が来訪していた時に夫人が急死してしまった事なども記されている。

多くの家臣は大名の江戸屋敷に長屋を建てて住むところ、江戸家老でもあり、森家は藩主黒田家からお姫様を迎えたりしているので姫様を長屋に住まわせるわけにも行かなかったのだろう。

10月20日、久留里では旧藩主黒田家の14代当主英志様のお国入りがありました。当文庫の森家が東京駅でお迎えし、車で久留里へ入られました。車が久留里駅前に到着すると着座家(家老職)の田丸家と重臣の黒川家がお出迎え、久留里の銘酒・藤平酒造をご視...
20/10/2018

10月20日、久留里では旧藩主黒田家の14代当主英志様のお国入りがありました。当文庫の森家が東京駅でお迎えし、車で久留里へ入られました。

車が久留里駅前に到着すると着座家(家老職)の田丸家と重臣の黒川家がお出迎え、久留里の銘酒・藤平酒造をご視察いただいて久留里城址資料館へ。

ここには今、当家の8代勝蔵の史料と共に初代黒田直邦公の具足が展示されています。

この具足は永らく黒田家代々の重宝であったところ、大正時代に黒田子爵家から靖國神社へ奉納され、今回貸与出品されました。

上総公民館では千葉大の小関悠一郎准教授による記念講演があり、1000点に及ぶ田丸家の古文書について解説がありました。

会場には袖ヶ浦市長の出口氏と、マザー牧場の前田社長、それに先週初当選され次期君津市長となった石井氏が駆けつけてくださり、終了後は旧藩庁であった久留里1番地の田丸邸に皆さまをお迎えし、森家によって薄茶一服が呈されました。

(久留里城址資料館で開催中に展示は12月まで。森家関係資料も多数展示されていますが、当文庫の収蔵品は出陳しておりません)

藩老森家正雅堂文庫では去る6月22日、ロンドンの在英日本国大使館において開催された維新150周年記念国際シンポジウムにおいて、収蔵史料の海外出陳を行いました。藩老森家の維新史料はその一部が東京大学史料編纂所に久留里森家史料として収蔵されてい...
27/06/2018

藩老森家正雅堂文庫では去る6月22日、ロンドンの在英日本国大使館において開催された維新150周年記念国際シンポジウムにおいて、収蔵史料の海外出陳を行いました。

藩老森家の維新史料はその一部が東京大学史料編纂所に久留里森家史料として収蔵されていますが、今回は当文庫に於いて管理している収蔵品より、森家8代当主森勝蔵著「雨城乃夢」下巻と、明治天皇御下賜茶碗を出陳しました。森家後嗣・森勇己(宗勇)による岡田駐英特命全権公使ご夫妻ならびに赤松駐英公使ご夫妻、山口大学の岡学長ならびに鹿児島大学の学長へのご説明を行いました。

当文庫による収蔵品の海外出陳はフランス、スペイン、アルジェリアに続いて4か国目となり、今回は同大使館において茶会を催された日仏茶道交流会に対する支援として協力しました。

(写真提供:在英日本国大使館)

去る6月11日、新宿京王百貨店にて開催された展示会「朝日焼十五代・十六代 継承の形展」に於いて茶席が設けられ、当文庫主宰の森宗勇(勇己)氏の掛釜により、第1席目には旧久留里藩主黒田家18代当主・黒田英志様の来席を賜わりました。席中では十六代...
23/06/2018

去る6月11日、新宿京王百貨店にて開催された展示会「朝日焼十五代・十六代 継承の形展」に於いて茶席が設けられ、当文庫主宰の森宗勇(勇己)氏の掛釜により、第1席目には旧久留里藩主黒田家18代当主・黒田英志様の来席を賜わりました。席中では十六代松林豊斎氏の解説のもと、森夫人の点前にて茶一服を差し上げました。

茶席では黒田家御拝領の莨(たばこ)盆や藩老森家伝来の朝日焼天目が用いられ、台風による荒天にも関わらず約100名の参席者をお迎えしました。

また会場では、豊斎さんが作品をひとつひとつご説明されました。

【新発見の史実・幕末の房総半島】房総半島における幕末の政情について、メモ魔であった当家の8代森勝蔵はかなりの記録を残している。この度の調査で、大変興味深い記述が含まれていることが分かりました。おそらく千葉県史を紐解いてもこの話は書かれていな...
28/05/2018

【新発見の史実・幕末の房総半島】

房総半島における幕末の政情について、メモ魔であった当家の8代森勝蔵はかなりの記録を残している。この度の調査で、大変興味深い記述が含まれていることが分かりました。

おそらく千葉県史を紐解いてもこの話は書かれていないでしょう。その一文を紹介します。

≪按ずるに明治元年三月、鹿児島人(薩摩藩士)45人が久留里城下にやってきて2週間逗留したが、九州からはるばるやってきたこの人たちの用向きは誰も知らなかった。
その後聞くところによれば、鹿児島某所から海路で房総半島まで来て、もし江戸城が引き渡されなかったときは房総から攻撃をする、その時の駐屯地として久留里城を使いたいと考え、数万人の兵が滞在できるか下見調査に来た。でも、4月17日に江戸城は無事に開城したから、その想定は消え去った≫

もし西郷隆盛と勝海舟の会談が決裂していたら、久留里城は大変なことになっていたかもしれない事実。

翌4月、薩摩、長州、岡山、津、大村の5藩による連合軍300人が久留里城下に押し寄せ、官軍へ着くように要請。家老森光新は、幼君黒田直養公の英断を仰ぎ、藩士300人を説得し、城下に駐屯する薩摩藩士に官軍恭順の意を伝えるのである。光新の子である勝蔵は、そんな父が連合軍陣営にかけ参じる姿を描いています。

この史料は来月ロンドンで開催される、薩長同盟150周年を記念するシンポジウムにおいて展示される予定です。

住所

Funabashi-shi, Chiba
273-0000

ウェブサイト

アラート

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